SNSは、命を救うと思う!

VMDコンサルタントの藤井雅範です。

20年前の今日

20年前の今日、1995年1月17日。

そこからの数日に渡って、ボクが感じてつぶやき続けた言葉。

『情報が無い・・・』

 

その日の早朝の突然の突き上げられる揺れ。

倒れる食器棚、飛び散ったガラスや陶器の破片。

壁に入った亀裂・・・

電車かトラックがアパートに突っ込んだんだと思い込んでいました。

電話は不通。

何がなんだか理解できない。

直ぐ近くの公衆電話は既に行列・・・

当時一人で住んでいた神戸市岡本のアパートから、芦屋市津知町の実家に向かう。

少しだけ明るくなりかけた街を移動している最中にようやく理解出来はじめた。

とんでもない揺れで、多くの建物が倒壊している。

芦屋市津知町

芦屋市津知町に到着。

実家は鉄筋3階建て。

まわりの建物がほぼ壊滅状態の中、姿をとどめている。

中に入ると、そこは避難所状態。

沢山の、倒壊して家が無くなった人々で溢れかえっている。

両親はご近所の方の対応におわれている。

身内の安否も確認できていない。

 

近所の兄や叔父の家は倒壊。

身内を救助できたものの大怪我を負っている。

病院へ搬送の手だては?

どうしたら救急車が来てくれるの?

『情報が無い・・・』

市内の病院を見に行く。

診察室どころか、待合室はもとより、寒空の下の駐車場にまで怪我人が溢れかえっている。

どうすれば診てもらえるのか?

病院を何件か回ってもおんなじ状況。

車で移動の途中、通りかかりの人から声を掛けられる。

「あのう、身内の遺体を載せてもらえないでしょうか?」

体育館に運び込む。

館内には沢山のご遺体が横たわっている。

その時初めて、ようやく、事態の異常さを認識し始めた・・・

どうして助けはこないのか?

街には助けの手だては来ていない模様。

倒壊した隣のアパートから出てきた娘さん。

父親が中にいるが引っぱりだせない、と。

ボクが引っぱてみたものの既に手は冷たく、身体は建物に押しつぶされて引き出せない。

たまらない無力感。

倒壊した建物の下にはとても沢山の人が埋もれているはず。

間違いなく何人もの人が・・・

身内とご近所以外の救助は来ない。

遠くでたまに救急車の音が聴こえるのみ。

どうして?なぜ?

こんなに被害が出ているのに助けが来ないのは???

『情報が無い・・・』

けがをした身内のひとりは通りがかりの救急車を捕まえて搬送してもらった様子。

もう一人はなんとか山手の病院へ搬送できた。

夜の闇の恐怖

夜になる。

余震がある。

実家は姿をとどめているとはいえ、家の中で寝るのは恐怖を感じる。

両親とともに、車で一夜を過ごすことに。

車で聞くラジオが情報源だが、ボクたちの目の前に起こった出来事を半日以上遅れて報道しはじめている様にしか聴こえてこない。

夜中に、目の前に現れたのは、なんと「戦車」!

実際には災害復旧用の特殊車両だったと思うが、キャタピラの音を響かせ登場したその車は戦車にしか見えなかった。

何を始めるのか???

その音と姿に恐怖がつのる。

何がなんだか・・・

『情報が無い・・・』

とりあえず、緊急車両が通れるように倒れた電信柱や建物を動かしはじめた様子。

公園が避難所に

当然電気、ガス、水道、電話が不通。

食べ物の入手、下水の処理など、生存している人たちがすぐに直面する問題にもどうすれば良いのか?

家をなくした人たちは何処に避難すれば良いのか?

『情報が無い・・・』

いつしか実家前の公園は青空の避難所に。

沢山の人々がそこを避難の拠点とし始めた・・・・・

(のちにテントが張られ、テント村となりました)

 

コレは震災からの1日の状況ですが、何度も感じた事

それは『情報が無い・・・』ってこと。

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SNSは命を救う

今は、沢山の人の手元にはスマートフォンがある。

情報の入手先としてはSNSもある。

とってもスピーディに情報は掴めます。

そして情報を発信する事も出来る。

20年前に、もしSNSがあればもっともっと沢山の人の命が救えた事でしょう。

それは間違いありません。

もっと早く情報を入手し、SOSを発信できたら。

もっと早く、レスキューや救助犬が来てくれたら。

・・・・・

非常用の袋に、スマートフォンのバッテリーもいれておきたいですね。

そしてSNSをインフラにする事も・・・。

 

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